景義「もっこ」の紋

熱田新田は、正保4年(1647)に初代尾張藩主の徳川義直の命を受けた、尾張藩成瀬隼人正正虎により開発されたものです。
 新田は東から三十三番割され、十一番割までが東組、十二から三十三番割が西組とされました。熱田新田後の新田開発で最も活躍した、人物として鬼頭勘兵衛景義があげられます。
 鬼頭勘兵衛景義は、源為朝の嫡子、尾頭次郎義次の子孫といわれ、十七世鬼頭義直の五代目で鬼頭家の祖となりまた。
 鬼頭 景義は寛永8年(1631)から明歴3年(1657)までの27年間、粉骨砕身の努力を重ねました。その結果、東福田新田・西福田新田を含み、愛知郡に十六ケ村、濃洲安八郡に一ケ村、合計27ケ村を開き、その石高はじつに23、000石余にも及んだと言われています。
このような開発事業に投じられた費用の膨大さは、想像以上のものであったが、彼は、このために祖先の遺産をすべて費やしなお巨額の負債を抱えたといわれます。
景義が子孫に残した「覚え書き」 にはこの苦労が書いてあります。

 当時の干拓工事の難関は堤防締め切り工事にあり、完成目前で流壊する例が多く見られている。彼は、東福田新田・西福田新田を開いた際、観音様のお告げにより、困難を極めていた堤防の締め切り工事が成功したことを感謝し、後年、熱田新田に一番から三十三番までの観音堂を建てたと言われており、現在でもこれらの一部が残されています。
 

・白鳥伝説
 目標に築き進んだものやらと日夜考えあぐねていたところ、ある日夢の中に白衣を着た人が現れ「景義、焦るではない。近日中に西の方より白い鳥が飛んできて海中に降り立つ。そこを目標に築き進んだなら見事工事は完成するであろう」と言って姿が消えた。
 景義はこれこそ日頃信心している西国三十三観音のお告げと思い、以後海岸にでて西の空を見上げていると、果たせるかな、西の方より白い鳥が飛んできて海面に降り立った。そこでその場所を目標に堤防を築いて、見事に新田を造り上げたということである。景義はその後、自分の築いた熱田新田を三十三の番割としたということである。
 現在一番町、六番町と呼ばれる町名はその名残りである。